竹工房資料室 佐々工房
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令和4年5月(2022年)
美術品の寄贈について
◇遺品整理までのいきさつ
 今回は、直接、竹の話題ではないのですが、ゆっくり旋回してその近くまで向かう話です。
 2021年10月、叔父が亡くなり、その遺品を整理しなければならなくなりました。といっても東京からは遠方(静岡県熱海市)なので、自分たちだけで片付けるのは無理とあきらめ、大半の荷物の処分は、業者に任せるつもりでした。
 叔父夫婦は子供がいないため、存命中から遺言を作成し、夫、義弟、叔母の妹2人の計4人が相続人でした。今から20年以上も前のことです。
 ところが、遺言執行人と4者が集まった初回の席で「まかせてください」と胸をたたいていた夫の方が先に亡くなってしまい、次にその任を引き受けた義弟も、それから2年とたたないうちに亡くなって、結局は私と義弟の妻が、その役目を引き受けざるをえなくなりました。
 それでも亡くなるのが叔父、叔母という順番であれば、叔母の親戚がすべてを采配したと思います。それが、叔母の方が先に亡くなってしまったことで、叔父方の親戚に責任が移ってきました。叔母の2人の妹が両方とも高齢で、実際のところ、動けないという事情もありました。
 退職後、都内から熱海のシニアマンションに移って30年あまり、そのマンションの保証人も私が引き受けていました。部屋で転んで大腿骨を骨折し入院したときも、そこから介護施設に移ったときも、保証人は私でした。
 もちろんその状況は、叔父が亡くなった後も続いて、事務上の種々の手続きとともに、マンションの片づけについても、義弟の妻と相談して対処せざるをえなくなりました。
◇片づけにとりかかる
 もともとマンションについては、叔父が亡くなる前から売却する方向で話が進んでいました。所有しているマンションでしたが、住んでいなくても、毎月かなりの維持費用が銀行口座から引き落とされ、介護施設の分とあわせると高額だったからです。
 叔父が亡くなった後は、施設の費用はなくなりましたが、マンションの分はそのまま残っています。とりあえず早く片付けて売りに出すしかないと、相続人と遺言執行人の間で話が決まり、片付けに取りかかることになりました。
 叔父が介護施設に入所していたのは、1年半あまりで、そのうちの1年は元気だったので、荷物は何も動かせないままでした。現実的には無理でも、本人が帰りたいという希望を持っていたので、手をつけるわけにはいかなかったのです。そのため売却の方針は決まっていても、部屋はそのままの状態でした。
 叔母は6年前に亡くなっているので、叔母の荷物は少なくなっています。60代後半で熱海に移ってきて、叔父が亡くなったのが98歳。マンション入居前は一軒家だったので、そのときとは比べようもありませんが、山のような荷物であることに変わりありません。それに、業者に大部分のものは持っていってもらうにしても、何があるのかだけは確認する必要があります。葬儀、四十九日を挟み、東京から熱海まで何度も通うことになりました。
◇二体のブロンズ像
 当初から、親戚の者に、欲しい物をもっていってもらうことに決めていました。家具、調度類などは良いものがそろっていましたが、古道具屋に売ってもたいした金額にはならないし、着物や書籍まで売るとなると立ち会いも必要です。往復の電車賃や時間的な手間を考えると、売却は現実的な手段とは思えませんでした。
 ただ、2体あるブロンズ像は、最初から、どこかの美術館に、叔父の名前で寄贈しようと決めていました。1体は玄関に飾っていたもので、これはそれほど大きくないので、応接間などに置けないこともないのですが、もう1体は1メートル以上もあり、普通の家の庭においても、かなり場所をとるものです。貰い手があるとも思えません。こうした美術品は、所有して、ある程度の期間が過ぎたら、公に展示したほうがいいと前から考えていました。
 ブロンズ像の制作者は高田博厚で、特に大きな方の作品評価額は、驚くほど高額でした。でもそれはあくまでも評価額であって、実際の取引ではその10分の1にでもなればいい方です。銅の価格に換算されるおそれもあります。
 なぜ叔父がそれを所有していたかといえば、叔父は税理士で、高田博厚の税務顧問をしていたからです。もっと詳しく言えば、叔父の幼馴染であった詩人の田村隆一の4番目の妻の父親が高田博厚なのです。娘の夫の幼馴染が叔父だったというわけです。
 叔父の手紙類を整理したとき、彫刻家からの御礼状があって、申告時にお世話になったので、作品を送ると書いてありました。でもそれがその2体であったかどうかはわかりません。
 私たち夫婦、そして義弟が結婚したとき、お祝いとして、彫刻家が描いた水彩画とレリーフを、それぞれ叔父からもらっていたからです。ひょっとしたら、他に何点もあって、親戚の手に渡っているのかもしれません。
 大きいほうのブロンズ像の評価額をなぜ知っているかというと、叔父から直接、聞いたからです。シニアマンションに移るときに処分しようとしたみたいです。でもためしに調べてみたら、高額なのでびっくりして持ってきたが、好みの作品ではないので、表立って飾ってはいないといい、ここにあるとドアを閉めて見せてくれました。
 玄関から居間に続くドアがいつも開け放たれていて、その背後に隠れていました。ドアを閉めない限り、置いてあることはわかりません。それまで何度も叔父のマンションには行ったことがありましたが、気づきませんでした。
◇寄贈の現実
 でも実際のところ、寄贈といっても簡単にはいかないと聞いていました。半年ほど前に、あるところで竹工芸の展示会をして、そのギャラリーは大きいので、彫刻家とアクセサリー作家が一緒だったのですが、そこでブロンズ像の寄贈の話をすると、その彫刻家が、そのへんの事情を教えてくれたのです。
 彼はある大学に大きな壁面のレリーフを寄贈したのですが、もちろん無料で、運搬費も自分もちだったといいます。そしてなにより重要なのは、自分が寄贈できたのは、そこの関係者と懇意だからであって、何のつながりもない人間が突然連絡して寄贈するといっても、簡単には受け入れてくれないということでした。けっこう寄贈の話はあって、美術館の倉庫はそうした作品でいっぱいになっている、という話もしてくれました。
◇鎌倉文学館
 その話を知り合いの編集者にすると、鎌倉文学館の副館長と知り合いだから話をつないであげると、思いがけない提案がありました。その編集者には、叔父の遺品のことで相談にのってもらっていました。
 叔父は田村隆一などの戦後の「荒地」の詩人たちと学生時代から交友があって、何人もの文学者と長い付き合いがありました。夫と結婚後、いろんな話を聞いていたので、当然、手紙類や資料があるのではないかと考えました。片付けを業者に丸なげしてしまえば楽なのに、そうしなかった理由のひとつは、そのこともあったからです。
 文学的な資料といっても、叔父はシニアマンションへの引越しのさい、あらかたのものは整理したと思われました。定期的に、知人の詩人たちのサイン本を、山のように送ってくる人だったので、そうしたものを、どれだけ貴重だと思っていたかも疑問です。しかし調べてみないことにはわかりません。もしかして、ということもあります。
 有益な資料が見つかっても、手に余るので、その編集者に譲渡しようと思っていました。叔父は2冊、本を自費出版しているのですが、彼は2冊目の本の編集者でした。
 やりとりのついでにちょっとこぼしたところから、話は思わぬ方向にころがって、寄贈への道筋ができたのはラッキーでした。さっそくブロンズ像の写真をとって大きさを明示し、彼のところに添付メールを送りました。
◇寄贈の現実その2
 結果、鎌倉文学館の感触はよいものでした。実は、彫刻家は亡くなるまで鎌倉市に住んでいたので、その点でも縁があるので歓迎ですと返事をもらいました。鎌倉市が運営に参加しているので、運搬は市の職員がするという話まででました。
 ところが実際、市の職員から電話があって、具体的な段取りを打ち合わせた時点から、雲行きがあやしくなってきました。
 まずは作品の鑑定書があるかと問われました。
 叔父はなんでも几帳面にファイリングする人でしたが、美術品に関する資料がなぜか、見当たりませんでした。豪華客船「飛鳥」に乗って何度か世界一周をしていて、絵画や陶器類など部屋にはたくさん飾ってありましたが、その関係の書類がないのです。
 定期的に絵画も買っていて、飽きる? とまとめて、私たちのところに送ってきたこともあります。夫が気にいって譲り受けたものも数点あって、たぶんほかの親戚も同様だったと思われます。
 荷物を片付けたときにクローゼットの隅に箱に入ったままの大小の絵がたくさんあって、走り書きのような紙がはさんであったのですが、絵の題名が書いてあるだけでした。
 そうした事情を説明すると、担当者は、美術館の名前を2館ぐらいあげて、鑑定書はそこの学芸員に書いてもらうこともできますと教えてくれました。たぶんそれなりに費用はかかるのでしょう。
 次に所有権が証明できるものがあるかと聞かれました。遺産相続などで、もめることを避けるためだそうです。ということは、叔父の名前では寄贈できないということでしょうか。質すと、故人の名前では受け付けられないということでした。
 それでは意味がありません。ただそれは展示のさいに、パネルの説明書きに、叔父と彫刻家の関係を明記すればよいのではないかと、助け舟を出してくれました。
◇さらに厳しい現実が
 その2点でもくじけそうになっているのに、最後に、寄贈の決定は鎌倉市の芸術文化振興財団の承諾をえなければならないが、その会議が開かれるのは、年度末あたりになるので、すぐには作品を引き取れないと知らされて、本当に考えこんでしまいました。
 それまで大きなブロンズ像をどこに置いておいたらいいのか。短期の場合だったら預け先を探すことは可能ですが、文化振興財団の会合は、場合によっては一年近く後の開催になるかもしれないとのことです。鑑定書があり、所有権がはっきりしていれば拒否されることはない、形だけのことだからと説明されても困りました。2、3日考えさせて欲しいと言うしかありませんでした。
 寄贈の話を進めたのは自分なので、鑑定の費用はもつつもりでいました。所有権に関しても、他の相続人に了承してもらって、それを書面にすればいいでしょう。しかし置き場所は・・・。1年近く預けっぱなしにするとなると費用もかかります。なにより、叔父の名前で寄贈できないことにがっかりしました。
 鎌倉文学館が市とかかわりがあるため、寄贈について、いくつも規定があるのかもしれません。といっても、ほかに彫刻を引き取ってくれそうな美術館として思い浮かぶのは、朝倉彫塑館か熊谷守一の美術館くらいです。朝倉彫塑館は台東区立だからきっと同じでしょう。熊谷守一の美術館は、ところ狭しと作品が展示されていた印象があります。何年も前のことですが。
 美術大学の彫刻科はどうだろう、と考えました。展示という扱いではなく、教材として利用してもらう、ということはできないか。
 寄贈先は少し落ち着いてから考えることにして、結局、市には断りの電話を入れました。残念がっていましたが仕方ありません。
◇美術品は相続財産
 遺言執行人にはそうした経過は知らせてあったのですが、ここで思ってもみない問題が持ち上がりました。美術品は相続財産として申告しなければならないというのです。
 失念していたようです。そんな説明は受けていなかったので、どんな作品が何点あるか、確認もしませんでした。親戚には、欲しいものはなんでも持っていってくださいと伝えてあったので、すでに多くの絵が散逸しています。いまさら返してくれとは言えないし、誰が何点持っていったかもわかリません。
 残っているのは5点の絵画と、ブロンズ像2点だけです。結局、それを美術業者に引き取ってもらって換金しましたが、思ったとおり、あわせても、評価額の10分の1にも満たない金額でした。
 ブロンズ像の大きなほうは、もうひとまわり大きい同じ作品が、鎌倉文学館にあるということで、成り行きに悩まなかったのですが、もう1体は、日ごろから、いい作品だなと思っていたので残念でした。
◇制作作品の始末
 本人がしっかりと行く先を決めておけば別ですが、どんなに貴重なものでも、普通はこんなふうに散逸してしまうのでしょう。美術品自体に興味がなければ、ただの重くてかさばるゴミでしかありません。
 5点、残った絵も、みなサイズの大きなものばかりでした。他にも大きなサイズの絵は何点かあったのですが、それは誰かがもっていったようです。1、2点ならなんとかなっても、それ以上は引き取れない。飾るスペースがなければ敬遠されて当たり前です。
 めぐりめぐって、自分の家にある展覧会に出品した作品のことを思いました。押入れの上の戸袋は、すでに作品でいっぱいでした。展示会に出す作品と違って、そうしたものは売れません。たまっていく一方なのです。それは私に限ったことではなく、展覧会の多くの出品者の悩みでもあるようです。
 作品は梱包してあったり、風呂敷で包んであったりするのですが、実際、本人以外の者が片づけるとなったら、それをいちいち解いて中身を確かめることなどしないでしょう。自分にとって大事なものが、他人にとってもそうだとは限らないわけで。
 それは両親やほかの何人もの親戚の家を片付けたときに、身にしみて思ったことでした。いくらもったいないと思っても、引き取れる荷物は限られます。
 そう思って今年1年の目標を断舎離にしたのですが、すでに1年の3分の1は過ぎてしまいました。叔父のマンションの片付けは、なんとか済んで、あとはクリーニングして売りに出せばいいだけになりましたが、自分の家の片付けはほとんど進んでいません。頭の痛いことです。
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